かなうれ感

2015年03月30日05:07

死別は悲しみであると誰もが思います。
愛する妻を亡くした夫や、かわいい子どもを亡くした両親にとって、
それは悲しみや絶望感以外の何ものでもないでしょう。
しかしその一方で、
死別により安堵感や解放感を味わう人たちがいるのも歴然とした事実です。

以前心療内科をしているときに、
うつで5年以上私のところに通院していた70代の女性患者がいました。
彼女は結婚以来、40年以上にわたり夫に尽くしてきました。
すべて夫の言うことに従順に従ってきた人生でした。
編み物などやめろ!のひと言で、
大好きだった編み物をやめたのは30年前のことです。

友人と楽しく電話をしていると、
「電話を早く切れ!」と怒られるため、
夫の前では電話はできなくなりました。

そんな夫が、5年間の闘病生活の後、静かに息を引き取りました。
葬式を済ませ、一段落着いたある日、彼女は私の外来を訪れ、言いました。
「こんなことを言ったら不謹慎だとは思うんですが、
主人を亡くして悲しいと思う気持ちもありますが、
それ以上に、ようやく主人から解放されたという
安堵感というか喜びの気持ちの方が大きいんです」

5年間、毎月通い続けた外来で、
ワンマンなご主人にどれだけ怒られ、責められ、
なじられ、侮辱されたかを知っていた私にとって、
ようやく訪れた安堵感や解放感は
死別の悲しみよりもはるかに大きなものだったということを
容易に理解することができました。

世間一般では、死別により残された人は
嘆き悲しむのが当たり前であり、
それを喜んだり、安堵したりするなんて
人間としてあるまじき態度だと思われがちですが、
実際には、そのような思いを抱く人はたくさんいます。

長年アルツハイマーを患っていた妻、
小さい頃から娘を虐待し続けていた父親、
麻薬と犯罪に明け暮れている息子、
精神疾患を患い暴力を振るう母親…

このような人たちの死に、内心救われたと思っている当事者に対して
「たとえどんな人であったとしても、人は尊い存在であり、
その死を喜ぶようなことは決してすべきではない」
などと言う人がいたならば、
その人は単なる理想論を、あたかも真理であるかのように語る
偽善者としか私には思えません。

しかし、このような死別に伴う安堵感や解放感の存在は
誰もが理解しうる感情であるにもかかわらず、
倫理的、道徳的、人道的理由からか、
その感情を言い表す単語は世界のどこにも存在していません。
単語が存在しないということは、
そのような感情は無視され、一般的に認識されることもありません。
つまりそのような感情は存在しないのと同じことなのです。

単語が存在しないために、
死別による安堵感や解放感を持った人は
そんなことを思ってはいけない、感じてはいけないと自分に言い聞かせつつ、
自然と湧き上がってきてしまう幸福感を感じている自分を責めたり、
罪の意識に苛まれたりする人もいるでしょう。

もしも、この感情を言い表す単語があったら、
このような罪悪感で苦しむ人はいなくなるでしょう。
そうであれば私が作ろうと思い、考えたのが「かなうれ感」です。
悲しけど嬉しい、つまりそれが「かなうれ(悲嬉)感」というわけです。
「かなうれ感」と言うと、ちょっぴり「憂う」と語感が似ているので
あまり不謹慎な言葉に聞こえないところもいいのではと勝手に思っています。

「かなうれ感」が市民権を得ることはないかもしれませんが、
そんな感情があると言うことを知っておいて頂くだけでも十分です。
死別の解放感に罪意識を感じている人がいたら教えてあげて下さい、
それって「かなうれ感」って言うんだよ、と。
そしたら、その人も救われるのではないでしょうか。

なお、この感情について書かれた本はあります。
「夫の死に救われる妻たち」(飛鳥新社)です。
興味のある方は是非読んでみてください。
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プロフィール

黒丸尊治

Author:黒丸尊治
もともと心療内科医でしたが、縁あって今は緩和ケア医として仕事をしています。もともと、コミュニケーションや「心の治癒力」に大変興味をもっており、今はホリスティック医学にもかかわっています。どちらかというと、のんびり屋でマイペースです。あまり人と同じことをしたくないという、天の邪鬼なところあり。
ホリスティックコミュニケーション実践セミナーHPはこちら。
http://holicommu.web.fc2.com

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