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内向的な性格を楽しむ

2018年04月26日20:04

前回は「孤独のすすめ」について書きました。
今回は、それに関連する内向性について書きたいと思います。

私は、前回も書いたように
セミナーなどでは明るく楽しく話をしますし、
飲み会でもよく飲んで、よくしゃべります。

でも実は一人でいるときがいちばん好きなのです。
周りのことに気を遣うこともなく
自分の好きなことを自由にできるからです。
自分は外向的な性格か、内向的な性格かと言われたら、
間違いなく内向的な性格です。

一般的に内向的な性格よりも外向的な性格の方が
よいように思われがちですが、そんなことはありません。

確かに、外向的な性格の方が明るいし社交的で目立ちます。
それはそれでよいのですが、
内向的な性格にもよい点がたくさんあります。

例えば、じっくりと考えるのが得意だとか、
本を読んだり勉強や研究をしたりするのが好きだとか、
知的な作業やクリエイティブな活動が得意だとか、
自制心や思慮深さがあるといったような点が
内向性の長所と言えましょう。

ところが、このような内向的な性格であるにもかかわらず、
私のようにセミナーや飲み会の席では
なぜ外向的になるのでしょうか。

それは、人は自分が強い関心を持っていることには
雄弁になるからです。
私は心療内科医の時に心理療法のおもしろさに目覚め、
以来、コミュニケーションや心理療法に強い関心を持ち続けています。

その証拠に、16年程前に緩和ケア医になりましたが、
その間も心理療法への思いは忘れることができず、
それからもずっと自分なりに本を読んだりしていました。

つまり、私にとってコミュニケーションや心理療法は
自分が最も強い関心を持っているものだと言えます。
だからこそ、コミュニケーションのセミナーまで開催するようになり、
それを大いに楽しんでいるのです。

セミナーに参加している人たちからすれば、
私はとても社交的で外向的なように
見えるのかもしれませんが、
それはあくまでも自分がとても関心のあることについて
語っているからです。

皆さんも同じだと思います。
釣りや野球、音楽、料理、絵画、歴史と好きなものは人それぞれですが、
それがたまらなく好きだというテーマに関して話をしているときは
誰でも外向的になり社交的になれるのです。

ですから、内向的な人は
普段は一人で本を読んだり、考え事をしたりと、
内向性本来のよさを活かして、
それを十分に楽しめばよいのです。

その一方で、自分がとても得意なことに関しては
同じことに興味のある仲間と一緒に
大いに語り合い、大いに楽しんだらよいのです。
そのときは普段は影をひそめている
自分の中の外向性が大いに力を発揮してくれます。

全てのことに明るく社交的に振る舞うのは
内向的な人間に取っては苦痛以外のなのものでもありません。
ですから、そんなことはする必要はありません。

普段は内向的に振る舞い、
大好きなことに関しては外向的に振る舞うことができるのが
内向的な人間です。
その点を十分に理解した上で、
内向性を大いに楽んだらよいのです。

自分が内向的だと思っている皆さん、
大いに内向性を楽しもうではないですか。


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理想論は嫌いだ!

2017年11月29日05:49

私は理想論やきれい事を言う人を
どうしても好きになれません。

心療内科や緩和ケアの分野でもそうですが、
教科書に書いてあるような
理想論やきれい事は
実際には全く役に立たないことが
しばしばあると感じているからです。

もっとも典型的な理想論は、
「前向きな気持ちを持つ」、
つまり「ポジティブシンキング」です。
もともと前向きな人は、
当然、ポジティブシンキングで生きています。
辛いことや苦しいこと、困難なことがあっても、
何とかしてそれを乗り越えることはできます。

しかし、それは「前向きな気持ち」を
持っている人に言えることであり、
心配性の人や自分に自信のない人、
ネガティブ思考のひとは、
当然のことながら、
前向きな気持ちなど持てません。

それをあたかも
「前向きな気持ち」を持てるように
なるべきだと言わんばかりに、
その大切さをやたらと語る人がいます。

このような人は、多分
現実が全くわかっていないのか、
「前向き」教の信者さんなのではないかと
疑ってしまいます。

大切なのは、
「前向きな気持ちを持て」と言うことではなく、
どうしたらそのようなものの考え方が
できるようになるのかを
教えてあげることだと思うのです。

「感謝の気持ちを持て」というのも同様です。
ありがたいと思えることには誰だって
感謝の気持ちを持つことができるでしょうが、
嫌だったり不快だったりすることに対しても
感謝が大切だなどと言われると、
この人は現実離れしている人だなと
思ってしまうのです。

もちろん、感謝の気持ちを持つことが
大切だということは百も承知ですし、
私だってそう思っています。

ただし、そのことと、
何事に対しても感謝の気持ちを持って
日々を生きていけるということとは
全くの別問題なのです。

いくら「前向き」だの「感謝」だの
理想論を掲げても、
それが実際にできるか否かは
全く次元の違う話なのです。

つまり、できない理想論を掲げ、
それを実行しろと言うのは、
実現不可能なことをしろと
言っているようなものであり、
そんなことを言っても
できないと思っている人にとっては
よりネガティブな気持ちになるのが関の山です。

できない人に対しては、
とにかくやれと言うのではなく、
「そう簡単にできることではないので、
今はできなくてもいいよ」と
言ってあげるところから出発しないと、
人は変わらないのです。

人が変わるためには、
無意識レベルに影響を及ぼす多くの経験と
思い込みに変化をもたらす
知識の積み重ね必要であり、
その上で適切な時期やタイミングで
「きっかけ」となることがあってこそ
初めて人は変わるのです。

そのような準備ができていないときに、
いくら前向きな気持ちが大切だの、
感謝が大切だのと言われても、
反発心が湧き上がってくるだけなのです。

ここが机上の空論である理想論やきれい事と
実際に人とかかわるときの違いです。
人間は心を持った生き物であり、
機械やロボットではありません。
「感謝」と入力すれば、
感謝ができるというわけではないのです。

「今は無理に感謝の気持ちを持つ必要はない」と
言ってあげることにより、人は気持ちが楽になり、
だからこそ、何かのきっかけで感謝の気持ちに
目が向く可能性が高くなるというものです。

こうすべきだと言われても人は変わりませが、
「北風と太陽」の話しのように、
相手が自ずと目指すべき方向に動き出すためには
どうしたらよいかという視点で
物事は考えていく必要があるのです。

理想論を言っている人は、
そのあたりが理解できていないのではないかと
私はいつも思ってしまうのです。


テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

答はその人の中にあるって本当?

2017年10月30日15:21

悩みや問題を抱えている人が
どうしたらよいのか
わからない状態に陥っているとき、
よく人は、答はその人が中にあるとか、
その人が知っているとか言われます。

そのため傾聴を中心とした
かかわりをするカウンセラーは、
あまり余計なことは言わず、ひたすら聴き続け、
その人が、自分の答えに気づくのを待ちます。

それで気づく場合もあるとは思いますが、
私は「答はその人の中にある」という考え方自体に
少しばかり疑問を持っています。
まあ、4割はそうかもしれませんが、
6割は違うなといった感じです。

人は悩みや問題の解決方法を見つけるために、
無意識や潜在意識の力を借ります。
そこには、意識には上ってこない
知識や経験によって積み上げられた
膨大な量の情報が蓄積されています。

私たちの脳は、これらの情報に目を向け
問題解決にふさわしい対応策やアイデアを
見つけ出すという作業をしているのです。
その意味では
答はその人の中にあるというのは正解だと思います。

しかし、無意識の中にある情報に
目を向けるという作業は
何かの刺激やきっかけがないと
実際にはなかなかできません。

例えば、気づきを促すような質問だとか、
それはいい!と思えるような提案だとか、
そのような「きっかけ」があって初めて人は、
問題解決の糸口に気づくことができるのです。

つまり、自分の中に答があると言っても、
それが意識に上がってきて初めて
「気づき」が生まれるわけであり、
無意識の中にとどまっていて、
それに気づかない限り、
答は存在しないというのと一緒なのです。

そういう意味では、
その人の中に答があると言い張るのは、
ちょっと言い過ぎかなとも思うのです。

さらに、気づきの中には
無意識の中にあるいくつかの情報を
うまく組み合わせて、昇華させることで
今までになかったよりよいアイデアや
解決策が生まれるということもあります。

また、同じことでも違った見方をすることで
全く新しい発見になることもあります。
例えば、人前に出るといつも不安を感じ、
ドキドキしてしまう人に、
誰かが、それは不安ではなく、
興奮してワクワクしているだけなんだと
教えられたとしましょう。

その考え方を受け入れることができたなら、
その人の不安感は一気に和らぎます。
つまり、物事をどのように解釈するかにより
問題が問題ではなくなることもしばしばです。

このような新しい解釈や
自分にとって都合のよりストーリーというのは
本を読んだり誰かに言われたりして
気づくという場合がほとんどです。

海外に行ったことがない人が
海外に初めて行き、その文化の違いに
驚くのと一緒で、
知らないことは誰かに教えてもらうとか
新たに経験することがない限り、
気づいたり発見したりすることなどできないのです。

つまり、問題解決の答えを見つけるための
材料はあったとしても、
そこに新たな「何か」に接することで
初めてうまい解決策に辿り着くという場合だって
あるわけです。

このようなケースでは
その「何か」がない限り、
決して答には辿り着けないわけなので、
その意味でも、自分の中に答がすべてあるとは
言えないのではないのでしょうか。

皆さんはどうおもわれますか。


テーマ : カウンセラーやセラピストのお仕事
ジャンル : 心と身体

「心の治癒力」再考

2016年09月24日06:01

私が「心の治癒力」という言葉を使い始めてから
もう20年以上が経ちます。

もともとは心が持っている、
身体症状を改善させる力という意味で、
この言葉を使っていました。

例えば慢性疼痛の患者さんでも、
希望が持てたり、気持ちが明るくなったりすると
痛みが軽減ないしは消失します。
これが「心の治癒力」だという理解です。

しかしあるときから
必ずしも身体の症状に関係なく
「心の治癒力」はあると思うようになりました。

例えば、愛する人や子供を亡くし、
悲しみに打ちひしがれたり、
不安や落ち込み気分で
悶々とした日々を過ごしている人であったとしても
ある程度の時間が経過することで、
次第に心が癒され、
気持ちも楽になってくる人も多いということは
誰もが感じているところです。

つまり、身体には傷や症状を治す力があるように、
心にも自分自身の心の傷や症状を癒す力があるということです。
それもまたれっきとした「心の治癒力」だと思ったのです。

さらに、様々な患者さんの治療経験から、
自分が抱える悩みや問題を解決したり、
苦しみから這い上がってくる力が人には存在しており、
これもまた「心の治癒力」だと思うようになりました。

悩みや問題は時の流れにより自然と解決することもありますが、
様々な工夫や気づき、努力、忍耐により
初めて問題が解消されることも少なくありません。

このような悩みや問題を抱えているときは
誰もが辛い思いをしているでしょうし、
そのストレスで身体症状が現れることもあるでしょう。

その原因となっている問題を解決しなければ
心の癒しも身体症状の改善もないわけですから、
自らの力で問題を解決するという意味での「心の治癒力」は
特に重要だと言わざるを得ません。

ですから今は以下の三つの意味で
「心の治癒力」という言葉を使っています。

1,心が持つ身体症状を改善する力
2,心が持つ自分の辛さを癒す力
3,悩みや問題を解決する力

「治癒力」という言葉を
「治」したり「癒」したりする「力」だと理解するなばら、
まさにこの三つの意味合いを持つ言葉が
「心の治癒力」だと言えます。

皆さん、いかがでしょうか。




死の不安への対処法

2015年04月29日06:29

末期がんの患者さんのように、
近い将来確実に自分の死が訪れるとわかっているような状況になったとき、
人は誰でも死への不安や恐怖を感じるものです。
そのような不安や恐怖には、どのように対応したらよいのでしょうか。

一般の人は、自分が最後どうなるのかがわからないことで、
すごく不安を感じるものです。
自分が死ぬという経験は誰もしたことがないので、これは当たり前なことです。
ですから、先ずは自分が最後、どうなるのかを知ることが
不安軽減の第一歩につながります。

たいていの人は、最後は苦しむのではないだろうかと思っています。
しかし今は、緩和医療も進歩し、苦痛をできるだけ取り除き、
最後は苦しむことなく楽に逝けるということが十分に可能です。
そんな説明をしてあげるだけで患者さんはホッとするものです。
このように、最後は安らかに逝くことができるということを知るだけでも、
不安感はずいぶんと軽減されます。

また、中には残された家族の心配や、
後悔の念、無念の気持ちといった思いを持つ人もいるでしょう。
このような場合には、これらの思いが少しでも軽減できるようなことを
できる範囲内で行動に移してもらうことです。

誰かに相談する、話しを聞いてもらう、手紙を書く、ビデオレターを作るなど
自分の置かれた立場により、人それぞれ異なると思いますが、
ほんの小さなことでよいので、
少しでも問題解決に向けて動けるように、
そっと支えてあげることが大切です。

もちろん、それですべての心配がなくなるわけでも、
後悔の念が消えるわけでもありませんが、
何か行動をするというだけで気持ちは少し楽になりますし、
また、それで不安が多少なりとも解消するのであれば、
それだけでも十分に意味のあることです。

ただし、何をしたらよいのかがわからないとか、
行動を起こすだけのエネルギーがないという人も多くいます。
そのような場合は、敢えて行動に意識を向ける必要はありません。
その時には、自分の過去、未来、現在に思いを巡らしてもらえばよいのです。
つまり、行動ではなく「思い」に焦点を当てるわけです。

先ずは過去ですが、
誰もが、自分が輝いていたとき、がんばっていたとき、
何かを成し遂げたときというのがあるものです。
そのような過去の自分を振り返ってもらうことで、
「自分は、今までよくばんばってきたんだなあ」という思いが持てれば
過去の自分に思いを馳せるというのはとてもよい対処法になります。

しかし中には、自分の過去には
一切誇れるものがないと思い込んでいる人もいます。
そんな人には未来に目を向けてもらえばよいのです。
つまり「死んだらどうなるんだろうか」ということです。
これには正解はありません。
自分がこうだと思ったものが正解になります。

先に逝った母親に会いたいでも、
残された子どもたちを草葉の陰から見守ってあげたいでも
天国や極楽に行くでも何でもよいのです。

私の場合は、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」の
あのフレーズが忘れられません。
「天国よいとこ一度はおいで、酒はうまいしねえちゃんはきれいだ」
私は、死んだらこのような世界に行けると思うと、
死ぬのもまんざらではないなと、ちょっと嬉しくなってしまいます。

未来にどんな思いを巡らせるかは、その人の自由です。
そうすることで、迫りつつある死への不安が軽減できるのであれば、
どんな思いやイメージでも構いません。
是非、微笑みが浮かぶような未来のイメージを描いてもらって下さい。

では、過去や未来に思いを巡らせるのは苦手だという人は
どうしたらよいのでしょうか。
そのような人は「今」に意識を向けてもらえばよいのです。
週刊誌や新聞を読んでもよいし、
写経や読書、編み物、パズル、音楽を聴くでも何でもOKです。
もちろん、飲めるのであればお酒を楽しむというのも構いません。

どんなことでもよいので、
「今この瞬間」に意識が向くようなことをすればよいのです。
その瞬間は、死への不安に苛まれることはありません。
現在に意識を向けるという作業の積み重ねが、
死への不安を和らげる対処法になるのです。

では、それすらできないという人はどうしたらよいのでしょうか。
その場合は、不安や後悔の念を持ちながら、
ああでもない、こうでもないと、
あれこれ考えながら過ごしてもらえばよいのです。

それでは、何もしないのと何ら変わりがないと思うかもしれませんが、
そうではありません。
人はずっと考え続けたり、不安感を抱き続けたりすることが
できないようになっています。

なぜならば、肉体的限界があるからです。
つまり、考え続けていると疲れてしまい、
いつしかボーッとなり、そのうちウトウト眠ってしまうからです。
もちろん、目が覚めたらまた不安が蘇り、
あれこれ思い悩むことになりますが、それでよいのです。

このようなことを繰り返しているうちに
状態は次第に悪化していきます。
最終的には、意識ももうろうとなってくるので、
思い悩むことすらできなくなり、
その延長線上に死が訪れるというわけです。

「不安をぬぐい去ろうとしなくてもいいですよ」というメッセージを伝えつつ、
傍でそっと見守ってあげる、それでよいのです。
人は、ただそれだけでも、ちょっと安心するものです。

実はどう転ぼうと、遅かれ早かれ死という現実は訪れます。
それまでの過ごし方は人それぞれですが、
その際、死の不安に対して
どう受け止めるのか、どう考えるのか、
どんなことができるのかといった視点から考えてみると、
死の不安への対処法というものが見えてきます。

死の不安におののいている人がいたら、
今言ったような視点から、そっとかかわってみて下さい。
きっと、安堵の微笑みを目の当たりにし、
あなたもちょっぴり幸せな気分になることでしょう。


プロフィール

黒丸尊治

Author:黒丸尊治
もともと心療内科医でしたが、縁あって今は緩和ケア医として仕事をしています。もともと、コミュニケーションや「心の治癒力」に大変興味をもっており、今はホリスティック医学にもかかわっています。どちらかというと、のんびり屋でマイペースです。あまり人と同じことをしたくないという、天の邪鬼なところあり。
ホリスティックコミュニケーション実践セミナーHPはこちら。
http://kuromarutakaharu.com

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