異なる視点が大発見を生む

2016年05月31日07:23

「リーマン予想~天才たちの150年の闘い」(DVD)を見ました。
あまりのおもしろさに、つい見入ってしまいました。
なぜならば純粋な数学の分野である整数(素数)の研究が、
宇宙や素粒子の背後にある自然法則を解き明かす
カギになるかも知れないと言うのです!

これは例えて言うならば、心と身体は全く別のものと思っていたら、
実は両者はつながっていることがわかった!というような話です。
数学や物理は苦手という人でも楽しめますので、
まあ、少しだけお付きあい下さい、興奮しますよ…かな?

リーマン予想とは天才数学者リーマンがこの世に送り出した超難問であり、
150年もの間、未だ解かれていません。
詳細は私もわからないので、おおざっぱなイメージで説明すると
素数の並び方の背後に隠された意味を解明するといった問題です。
素数とは1と自分自身でしか割ることができない数のことで
2,3,5,7,11,13,17,19,23…と続きます。

この素数は無限にあり、
現在知られている最大の素数は1700万桁以上の数です。
億が9桁ですから、その途方もない大きさがわかると思います。
ところが素数の並び方には全く規則性がなく、気まぐれのようにしか見えません。
239の次の素数は241と2しか離れていないと思えば
72個も素数に出くわさないところもあり、全く規則性が見つけられないのです。

そのため、素数の現れ方には全く規則性などないと思われていました。
ところがオイラーが素数だけを使った風変わりな数式を考え出しました。
素数×素数÷(素数×素数-1)という式です。
素数が2であれば、2×2÷(2×2-1)=4/3となります。
次の素数3は、3×3÷(3×3-1)=9/8
これを素数に関して全て掛け合わせると、
4/3×9/8×25/24×49/48×…となるわけです。

とびとびの値をとる素数だけを使った式に
意味のある答が出てくるとは誰も思っていませんでした。
ところがそうではありませんでした。
なんと、その答えはπ(パイ、円周率)を二乗したものを6で割った値、
つまりπ×π/6と等しくなったのです!

意味のない素数の集まりが、宇宙で究極の美である円を表す定数である
円周率πと関係していたのです!
オイラーは、素数が単なる気まぐれではなく、
宇宙の法則と繋がっている可能性に初めて気づいた数学者だったのです。

オイラーの発見からおよそ100年後の19世紀半ばに、
リーマンは素数に意味があることをもっと数学的に表現したのでした。
それがゼータ関数で、これはオイラーの式ととてもよく似ています。
この関数を立体的なグラフに描き、そのグラフの高さがゼロになる
ゼロ点の位置を調べたのです。

当初の予想では、素数の並びが不規則なのだから、
その不規則な素数によってできたゼータ関数のゼロ点も
バラバラだと思われました。
ところが調べてみると、
ゼロ点が一直線上に並んでいそうだということに気づいたのでした。

そこでリーマンは次のような予想をたてました。
「ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にあるはずだ」
これが、有名なリーマン予想です。
これは素数の並びには意味があるのか?という問いを、
全てのゼロ点は一直線上にあるのか?という
数学的な問題に焼き直したものでした。

この数学上の予想が正しいことが証明されると、
素数に理想的で完璧な調和が存在することが証明されることになるのです。

その後、多くの天才数学者がこの問題に取り組みました。
ところが今現在に至るまで、誰一人としてこのリーマン予想を
証明した人はいません。
それどころか、統合失調症を発症したり自殺したりしてしまった
数学者までもが現れました。

コンピューターの原型を作ったと言われるアラン・チューリングも
リーマン予想に取り組んだ一人でした。
もっとも彼の場合は、直線上にはないゼロ点を見つけることで
リーマン予想は間違っていることを示そうと考えていました。
計算機を駆使して1000個以上のゼロ点を調べましたが、
その全てが直線上にあることがわかり、
結局、彼のもくろみは失敗に終わりました。

ところが、1972年にこのリーマン予想に
新たな視点を持ち込む出会いがあったのです。
それが素粒子物理学のフリーマン・ダイソン博士と
数学者のニュー・モンゴメリー博士の出会いでした。

研究所の1階のラウンジでお茶を飲みながら休憩していたダイソン博士に、
たまたま研究所を訪れていたモンゴメリー博士の友人が
彼を紹介したのでした。
一人は素粒子物理学者であり、方や整数論が専門の数学者ですから、
お互いのことには最初から興味がありませんでした。

社交辞令としてダイソン博士が
「どんな研究をしているんですか」と尋ねたところ、
モンゴメリー博士は自分が今行っている研究について話し始めました。
モンゴメリー博士は、ゼロ点の間隔の現れ方に興味を持っており、
それを表す数式を見つけていたのです。
その式を見たダイソン博士は驚きと興奮のあまり、声が出ませんでした。
なんと、その式はダイソン博士が見つけた
原子核のエネルギーの間隔を表す数式とそっくりだったのです!

自然界の構成要素である原子、
その中心にある原子核のエネルギーは一定ではなく、
とびとびの値を取ることが物理学の世界では知られていました。
そのとびとびの値とゼロ点の位置の値の数式がそっくりなのです!
二人の出会いは、素数という数学の世界と素粒子という現実の世界に
関連があることが発見された瞬間だったのです。
このことは、もしもリーマン予想が実証されたならば、
大宇宙や素粒子の背後にある自然法則が明らかになるかもしれない
ということを意味しているのです。
素数は、神が創造した自然界を理解するカギなのです。

ひとつの問題を解く場合、
全く異なる分野の、全く異なる視点が、
解決の糸口になることがよくあります。
同じものを違った視点から見ることによって
今まで見えなかったものが見えてくるのです。

このDVDを見て、私はそのことを再確認させられました。
そして改めて、全ては繋がっているという思いを強くしました。
皆さんはいかがでしょうか?


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テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

芸能人格付けチェック!

2016年01月03日08:08

みなさん、あけましておめでとうございます。
いよいよ、平成28年の幕開けですね。

さて、普段はあまりテレビを見ない私なのですが、
元旦に放送される「芸能人格付けチェック」だけは特別で、
毎年、真剣に?見ています。

今回もとても楽しませてもらいました。
最初は100万円のワインと5,000円のワインを飲み比べ
どちらが100万円のワインなのかを当てるというものですが、
これがなかなか面白いんです。

一般的に考えると、答は歴然としており
誰でもわかりそうなものですが、
実際にやってみると、皆さんかなり迷われ、
結局、半分くらいの人が間違うのです。

どちらが高級ワインかを決めると、その理由を言うのですが、
それぞれが、あれこれ蘊蓄を披露しながら、
そのワインが、芳醇で高級感あふれる味わいがあるとか、
とても貫禄と奥深さを感じるといった話しをします。
しかし結局、それが安い方のワインだったりするのです。

もっとも、皆さんの話を聞いていると、
明らかに味は違うのですが、
どちらが高級ワインかとたずねられると
どうもはっきりとは判断しかねるようです。

この番組を見ながら、いつも思うことがあります。
味は主観的なものですから、好みがあってもよいのですが、
そこに高価だとか銘柄といった情報が入ってくると、
その瞬間、味よりも、その情報がもつイメージの方が先行してしまい、
それが、おいしいとかおいしくないといった味を感じる、
正確に言うと「感じようとする」のだと思うんです。

つまり、味がおいしいからおいしいと感じるのではなく、
これはおいしいに違いないという思いが、
おいしさを作り出しているということです。

そのことは、「味覚」チェックでも同様でした。
ミシュラン常連の超有名店が提供する最高級食材を超一流の技で調理し、
その味を吟味するというものですが、
これまた、庶民的な安物の食材と区別がつかないことが多いんです。

例えばスッポン鍋(3,800円)のスッポンとカエル(1匹300円)、
アワビのステーキ(時価7,800円)とトコブシ(1枚200円)
フカヒレの姿煮(9,000円)と人工フカヒレ(100グラム600円)
鯛めし(時価5,000円)の鯛と冷凍ティラピア(1尾400円)
といった具合です。

結局、高級素材であろうが、冷凍食品や人工ものであろうが、
味に関してはあまり区別がつかないということです。
ここでも、高級料亭で手間暇かけて作られた料理であれば
おいしいに決まっているという思いが、
おいしく感じさせているのだということがよくわかります。
もちろん実際には、お店の雰囲気とか、
誰と食べたかといったことも味覚に大きく影響するため、
様々な要因の総合した結果としてのおいしさだと思います。

私たちは、食材そのものの味が、
その料理のおいしさを決める最も重要な要素のように思っていますが、
実は、食材そのものはあまり決め手にはならないという
ショッキングな事実がこのことからわかります。

チェック6の「牛肉」も全く同様であり、
どちらが100グラム20,000円の飛騨牛の最高級ヒレ肉で、
どちらが100グラム900円のアメリカ産牛肉なのかも
半分以上の芸能人が間違っていました。
ということは、味だけで判断するのであれば、
100グラム900円の肉で十分だと言うことですよね。

また音楽に関しては、
ヴァイオリンとチェロによる三重奏の音色を聴き、
どちらが総額32億円の楽器によるもので、
どちらが初心者用の総額80万の楽器によるものかを
聞き分けるという「音感」チェック、
それとプロの吹奏楽団「東京吹奏楽団」と
アマチュアの「玉川大学吹奏楽団」の演奏を聞き分ける
「吹奏楽」チェックがありました。

私もテレビを通しての演奏を聴いての判断でしたが、
自信を持って答えたものの、ふたつとも間違え、
子供たちからひんしゅくを買ってしまいました。
(もっとも子供たちも区別がつかなかったようですが)

これもだいぶ意見が割れました。
結局、高額な楽器だろうが、プロの演奏だろうが、
あるレベル以上であれば、
素人からすると、演奏そのものの違いは
あまりわからないということだと思います。

音楽には楽器による微妙な音色の違いや
演奏家による表現力の違いなどがあるとは思いますが、
プロからすると明らかな違いとしてわかるのかもしれませんが、
素人からすると、その違いは
まあり気づかないほどの微妙なものだということです。
プロの世界では、この微妙な違いが大きくものを言うのでしょうか、
一般人にとっては、あまり関係なさそう気がします。
曲を聴いて、楽しめればよいのですから。

あとは「盆栽」の問題もありました。
これは、日本を代表する盆栽作家の作った盆栽(1億円)と、
お菓子で作った盆栽(7万円)を区別するものでした。

これは近くで見たらわかってしまうので、
ある程度遠くから見て判断するものでしたが、
これは「ひっかけ問題」のような気がしました。
ひとつは、これが盆栽だというような典型的な盆栽でしたが、
もうひとつは、しだれ桜のような雰囲気の寂寥感漂う作品でした。

見た目での印象で判断するしかないので、
私は、典型的な盆栽の方が1億円だとしたらあまり面白くないなあと思う一方、
その裏をかいて実は典型的な方が、本物かもしれないと迷いましたが、
最終的にはしだれ感のある盆栽の方を本物だと判断したのですが、
正解は典型的な盆栽の方でした。

これは、作品自体からは区別がつけられないと思うので、
あとは直感で判断するしかありません。
そうであれば、番組制作者の意図を読むしかありません。
その意味で、この問題はあまりよい出題とは思いませんでした。

この番組を見ていると、
人はいかに知識や思い込みに左右されながら、
物事を判断しているのかということがよくわかります。
実は、日常ではこのように思い込みで物事をみていることがほとんどです。
ただ違うのは、そうわかっていながら楽しむ人と、
本気でそう思いながら楽しんでいる人がいるだけのことです。
皆さんは、どちらのタイプですか?

私の便秘解消法?

2014年06月23日07:42

今回は便秘の話しです。
私は小さい頃から便秘で、3日、4日出ないのはあたり前、
気づいたら1週間出ていないということもよくありました。
毎日快便がある人にとっては信じられないかも知れませんが、
便秘の人って、こんなもんです。

だからと言って、私は一度も下剤は使用したことはありません。
小さい頃に親から浣腸をされたことは記憶にあるのですが…
もっとも便秘でも、それ程辛かったわけでも苦しかったわけでもなかったので
出るまで待っていたらいいかと思っていました。
しかし大人になると、みんなからそれは異常だ、健康によくないと言われ、
さすがに少し気にするようになりました。

そこで、とにかく便秘によいと言われるものを色々試してみました。
十分な水分や野菜の摂取、玄米、納豆、乳酸菌、各種サプリメント、
腹筋運動や「の」の字マッサージ等々、
人からよいと勧められたものやテレビでよいと言われたものは
とりあえずやってみました。
しかし、最初の2週間くらいは「いいかも」と思うのですが、
続けていると、だんだん慣れて?きてしまうせいか、
結局はもとの便秘状態に戻ってしまうのが常でした。

私は生後10ヶ月で虫垂炎(俗に言う「盲腸」)の手術をしています。
その際、左に虫垂があったようで、
腸管が通常の人とは反対の左回転である可能性があり、
それが便秘の原因なのかも知れないと密かに思っていた時期もありましたが、
今考えると、それは関係なかったようです。
(もっとも、腸の回転が逆かどうかも調べていないので実際にはわかりません)

一方、学生時代から試験勉強に集中しているときなどは
よく便が出ていましたし、
講演をする前など、適度な緊張感があるときにも気持ちよく便が出ます。
通常はリラックスすると副交感神経の働きが活発になり、
便が出やすくなると言いますが、私の場合は逆です。
リラックスしているときは便秘傾向になり、適度な緊張感があると便が出ます。
このことから察すると、普段の日常生活があまりに緊張感がなく、
ボーッとして過ごしすぎていることが
便秘の原因なのではないかとも考えました。
今でも、それはひとつの要因だと思っています。
なお、本屋さんに行っても私は便意を催しません。

さて、本題に入りましょう。
便秘の改善のために、あれこれ手を尽くしたのですが、
結局便秘はよくならず、半ば諦めていました。
あるとき、一体どれくらいの日数、便が出ないのか実際に記録してみようと思い、
十年前から毎日、便があった日となかった日を手帳に記録するようにしました。
平成16年から現在に至るまで、10年以上にわたり記録をつけています。
この記録を見てみると面白いことが見えてきました。
何と3年くらい前から、急に便秘傾向が改善し始めたのです。

実際の記録を見てみると
平成16年~18年までの3年間は年間160日前後であり、
排便率?は43%程度にとどまっていました。
平成19年、20年は年間200日前後であり、
50%ちょっととやや改善傾向にありましたが、
平成21年は年間160日で43.8%と、再び5割をわってしまいました。
しかし平成22年は207回で56.7%と
2年ぶりに50%を越え、かつ年間200日の大台にも乗りました。

そして平成23年は220日、60.3%と初めて6割を越え、
さらに平成24年は260日、71.0%と、7割をも越えたのです。
なおこの年には、20連チャン(20日間連続)という大記録も樹立しました。
毎日出ないのが普通のことだった私にとっては信じられないような出来事です。
この頃には、もう3日以上便がでないということは稀になりました。

また昨年は266日、72.9%だったので、
程度としては前の年と同じくらいでしたが、
日数的には自己記録を更新しました。
さらに10月には月間最多記録(28日)も達成しました。

今年はと言うと、今日現在まで174日中154日、88.5%という
これまた驚異的な記録が出ています。
このままのペースで行けば年間323回ということになり、
一気に300日越えを果たすことになります。
二日に1回あればよい方だった私にとって、
こんなにも毎日のように便が出るなんて本当に驚きです。

ではなぜ、こんなにも便秘が改善したのでしょうか。
はっきり言ってわかりませんが、
もしかしたら、こうして毎日記録を付けるということに、
それなりの意味があるのではないかとも思っています。
嫌でも毎日意識しますので、それが腸の蠕動運動を促す?のかもしれません。

もちろんそれだけの要因ではないでしょう。
3年前というと、私のピークだったストレスが一気に減った時期に一致します。
ストレスも便秘の大きな原因ですので、この可能性もありますが、
あまりストレスを感じていなかった時代でも便秘でしたので、
私の場合、ストレスが最大の原因だとは言えない気がします。

また、朝早く起きるのも便秘によいのかも知れません。
10年くらい前から5時頃には起きるようになり、
3年前からは3時半~4時頃に起きるようになりました。
ただこれも5時に起きていたのを4時に起きるようになったので
急に便秘が解消するようになったというのも考えにくい気がします。

と言うことで、結局、なぜ便秘が改善したのか私にもよくわかりません。
でも、毎日記録を付けるという作業をするだけでも、
少なからず便に意識が向くので、やるだけの意味はあるかと思っています。
便秘のみなさん、先ずは毎日の記録を付けることから初めてはいかがでしょうか。

治る医療と治さない医療

2009年10月09日07:46

以前は治る医療に強い関心を持っていた。
治す医療ではなく、治る医療だ。
もちろん今もその思いは変わらない。
しかしその一方で、
最近は治さない医療にも心が惹かれる。
こちらは治らない医療ではなく、治さない医療だ。

もともとがんの自然治癒に関心を持っていたが、
その根底にあるのが心の治癒力の存在だ。
いかにして心の治癒力をうまく引きだすか、
それが私のテーマでもある。

心の治癒力がうまく発揮できれば、
がんという病気ですらよくなることがある。
つまり病気は自ずと治りうるものなのだ。
もちろん心だけですべてが解決するわけではない。
食事や運動、治療、代替療法など
様々な要因がそこには関与する。
しかしその根底にあるのはやはり
心の治癒力だと思っている。

しかしその一方で、どう考えても、いつかは人は死ぬ。
これは自明の理だ。
そうであればやはり治るということにも限界がある。
そんなことは頭では十分にわかっている。
しかし目の前の患者さんを診ていると
どうしても「治る」ということに関心が向く。

ところがこの7年間、緩和医療に携わっていたせいか、
はたまた50歳を超えたせいなのかわからないが、
死ぬという、誰もが必ず経験するこの事実に
思いを馳せ巡らせることが多くなった。

死んだらもうお終いと考えれば、
一日でも長く生き続けたいと思うのだろうが、
死んだ後も生き続けると思えば、
それ程までの生への執着はなくなる。

患者さんに、最後のときをどのように過ごさせてあげるかは、
緩和医療医にとって大切なテーマであるが、
すべての人が死の事実を受け入れているわけでもなければ
死んだ後も生き続けるということを信じているわけでもない。
当然のことながら、一人ひとりその思いは異なるわけだ。

どのような患者さんにせよ、
その人の気持ちに寄り添った関わりをしていくことが大切だ。
治ることに執着し続ける患者さんには、
治療的関わりを続けてあげればよい。
最後まで代替医療をするのもよいではないか。
そんな生への執着を持ち続けながらも、
その時期が来れば、自然と亡くなる。
その人が本来持っている「治る」力がなくなれば
自ずとやってくる帰着点だ。
執着しようがしまいが、どちらでもよい。
自ずと最後はやってくる。
それでよいではないか。

もっとも、治ることへの希望を持ち続けている人でも、
状況の変化に伴って、その思いは変わっていく人も多い。
身体はだんだん衰え、食事はほとんど入らなくなる。
そんな現実を見ていれば、
次第に現実を受け入れざるを得なくなっていくのだ。
それは、徐々に生への執着を手放していくことを意味している。
それもよいではないか。

その一方で、自分の死を十分に理解し、
それを受け入れている人も少なくない。
そんな患者さんは、できるだけ自然の流れの中で
見守ってあげればよい。
余計なことはしなくてもいいのだ。
ただ苦痛だけは取って欲しいと言われるので、
それは叶えてあげる。当然のことだ。
治さない医療が最も得意とするところだ。

治る医療と治さない医療。
そこには、患者さん一人ひとりが持っている
本来の力を大切にし、
それにとことん寄り添っていこうという思いが
根底に流れている。

時には治す医療も必要だ。
それも十分にわかっている。
しかし治す医療を主体にしてしまうと、
どうしても治療者側の思いが中心になってしまう。
それをよしとする患者さんにとっては、それもよかろう。

しかし私は、治す医療よりもやはり治る医療の方が好きだ。
あくまでも主体を患者さんに置き、
こちらはそれをサポートするという関わりだ。
でも、必要に応じて時々治す医療も行う。
そして、いよいよという時期が近づいてきたならば
今度は治さない医療を主体にしていく。
自然の流れに身を任せながら、
ゆらりゆらりとしながらあの世へ旅立ってもらう。
そんな医療が私は好きだ。

テーマ : 伝えたいこと
ジャンル : ブログ

映画「ごくせん」からのメッセージ

2009年08月22日11:10

先日、映画「ごくせん」を見た。
あまりテレビを見ない私だが、
たまたまテレビで見た「ごくせん」に、なぜかはまりこんでしまった。
今回も映画が上映されることを知り、
これは絶対に見に行かないと行けないと思い、見に行ったというわけだ。

別に仲間由紀恵が好きというわけでもないし、
生徒として出てくる若い男性に関しては名前も知らない。
ではどこに惹かれるのか。
それはコメディながらも、彼女が演じる山口久美子こと「やんくみ」の、
ありえないほどの純粋さと一生懸命さに、ひどく惹かれてしまうのだ。

映画を見ながらも、何度も泣いた。
映画を見るといつも泣くので、恥ずかしいから、映画は必ず一人で行く。
そうしないと思いっきり泣けないからだ。
もっとも、思いっきり泣くと言っても、号泣するわけではない。
声を出さずに一人で涙が流れるのを全く気にせずに見ていられるという意味だ。

自分にはあのような純粋さなど全くないし、
第一自分が信じる道にあそこまで一生懸命にはなれない。
そんな自分にはない部分を「やんくみ」は持っているところが、
私を惹きつけてやまないのかもしれない。

でも、その一方で、よし、自分もがんばるぞ!という気になるから不思議だ。
もちろん、「さあ、みんな、夕日に向かって走るぞ!ついてこい!」なんて、
どっ恥ずかしくて口が裂けても言えないが、
一人静かに自分もがんばるぞ、という思いを心の中でつぶやくことはできる。
私にとってはそれで十分なのだ。

それから、「ごくせん」を見ていてもうひとつ感動したのは、
やはり「つながり」や「仲間」の大切さだ。
私はどちらかと言えば、何事も一人でやるタイプだ。
その方が気楽だし、自分がやりたいようにやれるからだ。
しかし一人でやることの限界もよく分かっている。
色々な人とのつながりや協力なくしては決してできないこともたくさんある。

現在、ホリスティック医学協会関西支部のまとめ役をしているが、
毎回行うフォーラムや2年に一度行うシンポジウムでも、
みんなの協力なくしては決して行うことはできない。
特に一昨年のシンポジウムには1500人もの人が集まり、
今年も7~800名くらいの人が来ることが予想される。
それだけの規模のものを企画、運営し、成功させるには多くの仲間の協力なくしては不可能だ。

「ごくせん」を見ながら、あらためて人とのつながりや仲間の大切さを実感できた。
またこの映画では、不良仲間がやられているところに、他の仲間が助けにいくというシーンがある。
彼らは自分らが、もしかしたらやられるかもしれない、という恐怖心を持ちながらも、
仲間のために助けにいくのである。
もちろん映画なので、最後は「やんくみ」も出てきて、
それなりに、事はハッピーエンドで終わるのだが、
でも、仲間を大切にし、自分を犠牲にしてでも「つながり」を大切にしようとする、
その純粋な思いにも感動させられるのだ。

「やんくみ」には、自分にはないリーダーシップがある。
しかも自分のためではなく、あくまでも仲間(生徒)のためだけを思って行動する、
そのような人を大切にする思いと行動力がある。
しかも、そこには飾り気も嫌みもない、とても純粋な思いからの行動である。
そんな、自分にはないものを、この映画の中では、たくさん見ることができた。
そんなところに、自分は感動したのだろう。

これから自分が何をしていけばよいのかということに、少なからず悩んでいる私にとって、
この映画は一つの方向性とヒントをくれた気がする。

テーマ : わたしの心
ジャンル : 心と身体


プロフィール

黒丸尊治

Author:黒丸尊治
もともと心療内科医でしたが、縁あって今は緩和ケア医として仕事をしています。もともと、コミュニケーションや「心の治癒力」に大変興味をもっており、今はホリスティック医学にもかかわっています。どちらかというと、のんびり屋でマイペースです。あまり人と同じことをしたくないという、天の邪鬼なところあり。
ホリスティックコミュニケーション実践セミナーHPはこちら。
http://holicommu.web.fc2.com

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